生モノに対峙すること
生モノには、観に行けるキモチの時と行けないキモチの時がある。
全ての外界からの刺激をシャットダウンしたい時もある。
時間を割くことやお金をかけること以外に
キモチの余裕が無いと難しい時がある。
でも無理くり行って凄く救われることもある。
また無理くり行って、行くんじゃなかった、てことも多々ある。
(生モノ=ココでは、人間が表現することとしてます)
でもそれは行動しないと判らない。
行動して、喜怒哀楽が生まれる。
「お風呂入るのめんどくさい、眠い・・・」って思っても
入ったら「あーきもちよかった~(*´ェ`*)」とか。
私なんてしょっちゅうだ。
(いやお風呂は好きですよ。)
しかし東京事変なんてここ数年買った
ライブDVDなんて開けてもない。
自分が足を運んだライブの再現に対峙する勇気がないのだ。
でもyoutubeでチラ見して、「ああ・・」なんて思ってるのだ。
それだけ自分にとって影響力が強い為、自制している始末。
特に自分が何かを作っている時は。
生気を吸い取られる気がして。
生気を吸い取られると言えば、
数年前、美術館に「日展」を観に行った時
素晴らしい作品を観ていたら気分が悪くなり
出口へ出たらすぅっと軽くなった体験があった。
作品におけるパワーが凄まじくて
一つ一つの魂の込め方が凄かったんだ。
全部生きていた。執念を感じた。それを感じてたら
だんだん具合が悪くなってしまって。
本人が居なくても生モノってあるんだって知った。
生モノと言っても知らない人と出会う飲み会や
友達と楽しむ遊びもそうだ。
彼らの表現、それは洋服であったり会話だったり、仕草だったり
それらに触れることで気持ちが揺さぶられたり感情を刺激される。
それも生のライブなのだ。
常に生モノの隣で生きている私たち。
もう、春だね。
★真横にデジピ並べることで環境が良くなった。
手を伸ばせばティッシュが届く位置に鍵盤置くと。