出島と日野、鯨食文化を未来へ繋げたい
本日は、私のひいおじいさん、日野商店の創業者日野政明から始まった
出島復元への想いと、長崎の鯨食文化の繋がりをお話しいたします。
その前に、ちょっと一言。
私は今年の1月に結婚しまして、実はただいま妊娠中。もうすぐ9ヶ月になります。
社会生活は旧姓(日野)で生活してますが、新しい姓は冠地(かんち)となりました。
お腹の中に新しい命が芽生えて感じることは、「次へ繋げていく」という実感。
名字は変わったけれど、日野の鯨のDNAは続いていくんだ、を日々体感しております。
そして、この度の新商品『長崎出島鯨咖喱』を発売。
次世代へ繋げたいその背景をお伝えします。
■日野と出島の繋がり
創業者の日野政明は、明治41年、四国から叔父と一緒に長崎に来て商売を始めました。
当時は明治維新であり、長崎に行けば何か新しい時代の波に乗れるかもしれない、多くの武家崩れが訪ねたのが長崎港でした。日野も士族の身分でしたが、もう武士では生きていけない、これからは刀のかわりに算盤を持つ時代だとさとり、商業を営みました。
昭和2年には築町市場に進出して店を構え大きく発展し、昭和24年に日野商店は長崎の出島に設立。
しかし翌年に後継者として楽しみにしていた、長男が病死。
その苦しみの中、『出島復元』を提唱し、私財を投げ打ちその活動に没頭したようです。
しかし当時はまだ食べることが先の時代。
結局は時期尚早で、長崎市も長崎県もと「あの人は馬鹿じゃなかろうか。そんなことができるはずないやないか」と取り合わなかったそうです。
しかしその努力を知って、昭和29年には初代のオランダ駐日大使、オット・リューヒリ閣下がご夫妻で、出島の日野家を表敬訪問されました。
しかし、出島復元に没頭するあまり、会社の経営面が悪化。
後継ぎの長男を亡くしたけど、何とか日野商店の屋台骨を継ぐ人が欲しい。
そこで、大洋漁業に勤めていた長崎市出身の広高浩二(後の日野浩二)を見つけ、ぜひ娘の婿養子にと強く懇願し、養子縁組が成立しました。
古書の『あじさい人物点描 下』(佐仲貴王里、長崎ばってん出版社)にはこう記載されています。
日野政明は、いまを去る25年前に『出島復元』に私財を投げ出して奔走した戦後秘話の持ち主である。こん日また、出島復元問題が再燃し各方面の関係者の心証を強く訴えている。
いま、ミニ出島の模型参観は観光用として一応あるにはあるが、とにかく、昔のままの復元建設は大変なものである。
長崎新聞社移転は復元協力の証しではあるが、まだまだこの道のりは険しく、遠いような気がしてならないのである。
『拝啓、先般、長崎市訪問の際は御懇篤なる歓待を辱ふし、且、見事な贈物を頂戴致し茲に厚く、御礼申し上げます。此の記念の品は貴殿並に昔のオランダ商館遺跡訪問の思い出として大切に保存致す所存であります』
これは昭和29年11月4日付けでオランダ大使を招聘したオット・リュヒン准男爵閣下の当時の礼状が残っている。
またその後の書簡で(オランダ語)一個人では余りにも膨大過ぎるので、県や国に依存した方がよいのではないか、と示唆している内容であった。
また文化史跡、出島蘭館復興協賛芳名録をみると、知事・西岡竹次郎。市長田川務。会頭(商工会議所)中部悦良。出島自治会長・海江田純。三菱造船重役・斯波考四郎等が筆頭欄で黒痕凛々と署名してありそのあとにズラリ民間の歴々の署名がある。また趣意書や当時の報道をした長崎新聞の複写などが大切に保存されている。
当の日野政明は当時88歳で老体をベットに横たえているが、当時を回顧しながら、『私の生存中には、この社業(復元)達成できるでしょうか』といぶかりながら語っていた。
(『あじさい人物点描 下』 P76,77より(佐仲貴王里、長崎ばってん出版社)
この本が発行されたのは1980年(昭和55年)、わたしがまだ2歳になる前の頃で、その年に曽祖父は亡くなっています。
わたしはほとんど当時の記憶はありません。
その後、長崎市が本格的に出島復元に動き出したのは1996年。
約170億円かけて進められ、私たちは、出島町の本社、工場、自宅を3年後には長崎市に売却することになりました。
当時のわたしは20歳。ひいおじいさんの出島復元の想いは知らなかったですし、幼い頃から馴染みのあった出島の祖父母の家と会社が立ち退くことは、正直淋しい想いでした。
そして、「出島」は2006年にリニューアルオープン。
それは、曽祖父が亡くなってから26年後のことでした。
■長崎の捕鯨の歴史も古く、江戸時代から続きます。
出島が日本の貿易の窓口として繁栄していた頃は、捕鯨は大きな産業でした。
幕末に訪れたオランダ商館の医師シーボルトも、しばしば鯨料理が提供されたことについての記録を残しており、中には「鯨ひげのサラダ」など食べていたそう。
当時の長崎は、九州エリアの捕鯨の中心。
各エリアで獲られた鯨は、大村湾にある東彼杵(ひがしそのぎ)に水揚げされ、そこで解体されたものが九州各地へと運ばれていました。その中でも、お金持ちが多く裕福だった長崎には最も良い部位が運ばれ、また距離も一番近かったため、鮮度が高い状態で届けることができました。
そのため、長崎では「鯨は旨い」という認識で広まり、他の地域では見られぬほど鯨食文化が発展!
その食文化は今もなお続いており、正月や結婚式など祝いの席で鯨を食べたり、町のあちこちで鯨料理を見ることができます。
弊社創業者、日野政明の「出島復元」への想いと共に「鯨食文化」も受け継がれている長崎。
昔と同じままで未来へ全て繋げていく・・・ということはできませんが、
時代と共に語り継がれる本質、は変わりはないと思います。
今回発売した「長崎出島鯨咖喱」は、現代人に親しみやすい昭和の庶民の味のカレーです。
濃厚に煮詰めたカレーの中に、ごろっと大きな塊の鯨肉。
それは鯨からわずか3%程度しかとれない、貴重な霜降り肉(須の子)を使用しています。
(商品は、レトルトではなく缶詰で製造しております)
ぜひ見かけたらお手に取っていただければ幸いです。
<主なお取引先・販売場所>
すみや「アミュプラザ長崎店」「ホテルニュー長崎店」様
松浦物産 道の駅松浦海のふるさと館様
有川町漁業協同組合様
ほか、長崎駅、空港など各種お土産店など販売予定。